2回目は妻の母について綴ります。

私の妻は農業高校の園芸科で3年間同じクラスの同級生です。
私が17歳の時からお互いの家に行ったり来たりしていました。

そこで初めて母と話した時には、おやつや飲み物を準備してくれて、気軽に話ができる環境を作ってくれて緊張もしなかったと思います。

21歳で結婚してからも、いつも味方になってくれて、おそらく私に対しての苦言を聞いたことがありません。
というのも、私の20代の時は、釣りのトーナメントに夢中になりすぎて、メロンや家族というより、頭の80%ぐらいはおそらく釣りで、毎日釣りばかりしていました。

妻のお腹の中に子供がいる時にも遠慮した風に見せて、釣りに行く日々でした。
堪忍袋の尾が切れた妻の愚痴を聞いても、母は「一生懸命やりゆうがやき、やらしちゃりや!」と妻をなだめてくれていたようです。
私たちの仕事が忙しい時や用事があった時はいつでも娘たちを見てくれました。

娘が卓球を始めてからは私たち夫婦が仕事で試合に行けない時でも必ず、母だけは見に来てくれて、娘たちにも、たくさんの愛情を注いでくれました。

そんな母でしたが3年半前ごろから、少し痩せてきました。食欲もないみたいでした。
おかしいと思い、病院に行くように薦めていましたが、何件病院に行っても特に問題はないとの診断でした。
病院の薬のセールスマンだった妻の父の言うことだから、そうなのか?と思いつつも、疑っていました。

もし、大変な病気だったら、親孝行できていないので、後悔すると思い、長女の大学の最後の試合は思い切って、痩せ始めた妻の母を父と共に県外の試合観戦に誘いました。

続けて、仕事は忙しかったのですが、スタッフに助けてもらう事を前提で、三女の高校選抜大会にも妻と母2人旅で福岡まで行ってもらいました。
その時には親戚とも会う事が出来て、みんなで喜ぶ事ができたようです。

まもなく、嫌な予感は現実となり、闘病生活が始まりました。膵臓癌です。
闘病生活の途中でしたが、家族でご飯を食べに行くのが好きだった母、帰って来るチャンスを見計らって、何度か一緒に食事と宿泊してもらう事も実現できました。

しかし、日を追うごとに痩せていたので、本当に毎日しんどそうでした。
最期の前の二週間ほどは、点滴も止められ、何もできない状態でも懸命に頑張ってくれました。
その姿を思い出すと私もしっかりと与えられた命を全うしなければならないと考えさせられています。

昨年12月に母が息を引き取ってからは妻の実家には男しかいません。
残された家族で何が出来るだろうかと考えている所、三女が妻の実家で住みこみ祖父達に毎日ご飯を作るという選択をしました。
今年で20歳になる彼女は自分の生活もあるので、いつまで、どのようにするか、わかりませんが、きっと良い選択をしてくれると思っています。

そして、私たち夫婦も出来るだけ協力していこうと思っています。

いつまでも悲しんでいても仕方がありませんが、妻の母に対して心残りの点は、日頃からの体調管理について、もっと注意してもらうことはできなかったのだろうか?最初に痩せ始めた時点で、もっと自分が自発的に病気のことについて調べ行動して、県外の病院も探して、診てもらえることもできなかっただろうか?
などが思い浮かびます。
悔やんでも悔やみきれませんが、本当に私にとって、いつもありがたい存在でした。

これから、まだまだとは思いますが、周りの人たちに幸せを与えられる人間になっていきます。
天国で見守っていてください。